アメリカ合衆国の独立(アメリカがっしゅうこくのどくりつ、英: American Revolution)では、北アメリカのイギリス13植民地が結束してイギリス帝国からの独立を勝ち取り、アメリカ合衆国を誕生させた18世紀後半について詳述する。
この期間の中心となるできごとは、1775年から1783年のアメリカ独立戦争であり、さらにその中でも1776年のアメリカ独立宣言と1781年のヨークタウンにおけるアメリカ軍の勝利が特筆に値する。
フランスはアメリカの愛国者達に金と武器を供給し、イギリスに対する同盟を結成し、陸軍と海軍を派遣してヨークタウンの戦いで戦争自体を終わらせる、というふうにアメリカの独立革命の鍵となる役割を演じた。しかし、アメリカ人は啓蒙思想哲学者の考え方の影響を強く受け、絶対君主制に反対していたので、フランス王政をアメリカ政府のモデルにはしなかった。
アメリカ合衆国の独立は、アメリカの大衆に受け入れられた新しい共和制思想のような初期アメリカ社会で起こった一連の広く知的かつ社会的変化を伴った。植民地においては、政府における民主主義の役割について鋭い政治的議論があった。アメリカの共和制への移行と段階的な民主主義の拡大とは、伝統的な社会階層に混乱をもたらし、アメリカの政治的価値観の中核となる倫理観を創った[1]。
独立への動きは、フランスからの軍事的脅威が無くなった1763年に始まったと言うことができる。イギリスは植民地を防衛する替わりに、植民地がそれに応じた費用を支払うべきという考えに立ち、一連の税金を課したが、これが不人気だった。また、植民地からは自分達の選んだ代表がイギリスの議会に出て発言する権利が無かったので、押しつけられた税法などの法律は無効だと考えた。ボストンで抗議行動を起こすと、イギリスは軍隊を送って封じようとし、アメリカは民兵を結集して1775年に戦いが始まった。アメリカ人の中にも王党派が15ないし20%はいたと考えられるが、戦争を通じて愛国者革命勢力が領土の80ないし90%を支配し続けた。イギリス軍は幾つかの港湾都市を奪るだけに留まった。1776年、13植民地の代表が会して全 会一致でアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆国を設立した。1778年にはアメリカとフランスの同盟が成立し、陸軍も海軍も同等な兵力となった。1778年のサラトガと1781年のヨークタウンで2つのイギリス軍大部隊が降伏し、1783年のパリ条約で和平がなった。アメリカ合衆国は北はイギリス領カナダと、南はスペイン領フロリダと接し、西はミシシッピー川を境界とする広大な国となった。
アメリカ独立戦争の詳細についてはアメリカ独立戦争を参照。
[編集] アメリカ独立の原因
[編集] 代表なくして課税なし
1763年までにイギリスは北アメリカの広大な領土を獲得した。13植民地に加えて22の小さな植民地が本国から指名された総督によって直接治められていた。七年戦争(アメリカではフレンチ・インディアン戦争)の勝利により、イギリスはヌーベルフランス(カナダ)、スペイン領フロリダおよびミシシッピー川から東の先住民族の土地を獲得した。1765年、植民地の者達はイギリス本国の住民が持つもの同じ歴史的な権利と義務の下に、イギリス王室に忠実な臣民であると考えていた[2]。
イギリス政府は七年戦争でフランスから北アメリカを守り抜いたことで、それに要した費用を払うためにアメリカの住人に課税することを決めた。アメリカ植民地の者達にとって税金が高いことが問題ではなかった(事実税率は低く、イギリス本国の市民が払っていた税金と比べれば特に低かった)。植民地の代表がイギリスの議会で発言する権利がないまま、新税についても植民地に何の前もっての相談も無かったことが問題だった。「代表なくして課税なし」という言葉が多くのアメリカ人社会で囁かれるようになった。ロンドンは、アメリカ人が「事実上」代表を送っているとの論法であったが、大半のアメリカ人はロンドンにいる男は現地で必要とされていることや置かれている状況について何も知らないので、アメリカを代表� ��ているのではないと、ロンドンの考え方を拒絶した[3]。
イギリスは理論上、帝国に利益をもたらすものは何でも(および他の帝国に損失を与えるものは)良い政策であるという、重商主義の原理に従った海洋法により、植民地の経済を既に牛耳っていた。植民地貿易は英国籍の船籍だけに限定された。この法には抜け道が多かったが長い間見過ごされてきた。しかし、際限の無い差押状を利用してこの法の厳格な運用が実行に移された。1761年マサチューセッツの弁護士ジェイムズ・オーティスは、イギリスの憲法で保障されるはずの植民地人の権利を差押状が侵害していると主張した。オーティスは訴訟に敗れたが、ジョン・アダムズは後に「アメリカの独立はあの時、あの場で生まれた」と書き残した。
1762年、パトリック・ヘンリーはバージニアで「人の大義」を論じた。バージニアの議会は法律を通すが、それには国王も投票権があった。ヘンリーは「国王が有益な性格の法を許可しないことで、人民の父であることから専制者に堕落し、忠実な臣民に対する全ての権利を失う」と言った[4]。
[編集] 1765年 印紙法が植民地を抗議の輪で一つにした
1764年イギリス議会は砂糖法と通貨法を成立させ、植民地人をさらに当惑させることになった。これに対する抗議として組織的なイギリス製品のボイコットという新しい強力な武器が生まれた。イギリスは同じ年に「宿営法」を通すことにより植民地人に追い打ちを掛けた。これはイギリスの兵隊は特定地域の住民によって世話されるべきものとしていた。1765年に成立した印紙法はイギリスから植民地に課された最初の直接税であった。新聞、年鑑、パンフレットおよび公的文書などの印刷物は、それがトランプの札であっても印紙を貼ることが求められた。13植民地全部が激烈な抗議をし、バージニアのパトリック・ヘンリーやマサチューセッツのジェイムズ・オーティスのような人気のある指導者が大衆を反対意見でまとめた。「自由 の息子達」と呼ばれる秘密結社が多くの町で作られ、印紙を売ろうとすれば暴力を使って脅したので、誰も法に従わなかった。ボストンの自由の息子達は副海事裁判所の記録文書を焼き、首席判事トマス・ハッチンソンの優美な屋敷を略奪した。幾つかの植民地政府が共同行動を提案し、1765年10月にニューヨーク市で開催された印紙法会議には9つの植民地から代表が集まった。中庸派のジョン・ディキンソンが「権利と不満の宣言」を書き上げ、代表なくして議会を通した課税案が古代からの権利を侵していると主張した。議論の重点はイギリス製品のボイコットにおかれ、植民地の輸入高は1764年の225万ポンドから1765年の194万ポンドに減った。ロンドンのロッキンガム内閣が権力を握っていたイギリス議会では、印紙法を廃案にするか、� ��るいは強制するために軍隊を送るかという議論になった。ベンジャミン・フランクリンが雄弁にアメリカの事情を語った。植民地はフランスとインディアンに対する一連の戦争で、イギリス帝国の防衛のために兵力、金を提供し、そして血を流した。その戦争の費用を払うために税金を課されることは不公平であり、反乱を呼ぶことになると論じた。議会は法の撤廃に同意したが、1766年の「宣言法」により「如何なる場合も」イギリス議会は植民地の法を作る絶対的な権利を保有すると主張した[5]。
詳細は「ボストン虐殺事件」および「ボストン茶会事件」を参照
1770年3月5日、ボストンで群衆が集まって一群のイギリス兵を取り囲んだ。群衆の脅しはその程度を増していき、雪玉や瓦礫を兵士に投げつけ始めた。混乱の中でほとんど全員の兵士が群衆に向かって発砲した。11名が撃たれそのうち5名が死亡した。
この出来事は直ぐにボストン虐殺事件とよばれるようになった。虐殺の詳細が誇大に広く伝えられ植民地人の感情をイギリスに対する反感に変えていった。この事件は特にマサチューセッツにおけるイギリスと植民地の間の関係を負の循環に巻き込んでいった。
1767年、イギリス政府はタウンゼンド諸法を通した。これは紙、ガラスおよび茶を含む日用必需品に対する課税を定めたものだった。植民地人は増税に怒りイギリス製品のボイコットを強めた。1773年、サミュエル・アダムズに指導されモホーク・インディアンの扮装をした一群の男達がイギリスの茶を運んできた船に乗り移り、1万ポンドと見積もられた茶を船から海に投げ捨てた。この事件はボストン茶会事件と呼ばれるようになるが、アメリカ愛国者の伝承で重要な位置付けとなった。ただし、このときの茶税は1シリングから3ペンスに下げられたもので、決して税率上げではなかった。ことの根源は、1773年5月に定めた茶法で、イギリスが東インド会社の救済のために茶の輸入を独占し、密貿易を禁じたことであった。
イギリス政府は「耐え難き諸法」として知られる幾つかの法律を成立させて対抗した。この中には、その商品が破壊された茶商人を植民地が確認するまでボストン港を封鎖するという処置が含まれていた。言うまでもなく、これら耐え難き諸法はイギリスに対する植民地の世論を悪化させるだけであった。
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