2012年4月10日火曜日

「ダッハウ収容所」を解放したアメリカの「日系人部隊」


●第二次世界大戦中、ウクライナではユダヤ人虐殺(ポグロム)が公然と行なわれたが、それは東欧諸国全般に共通する現象といえるものであった。北はリトアニアから南はクリミヤまでのナチス・ドイツ占領下のソビエト・ロシアでは、ユダヤ人殺戮のためにさまざまな形のナチスヘの協力が見られた。

それと共に、ソ連治下でくすぶっていた極右系のナショナリストのグループは、ナチスの方法手段をそのまま導入してユダヤ人迫害にあたった。

 


バルト三国と東欧諸国 (1939年)

 

リトアニアのグループなどは、ドイツ軍が攻め込んで来る前にいち早く、独自のポグロムを始めていた。これらの地域では警察のみならず一般庶民も、ユダヤ殺害のためなら互いの境界を越えてまで協力を惜しまなかった、と言われている。リトアニアで殺されたユダヤ人の数は20万で、生きながらえたユダヤ人はわずか1割だけであった。

 


ユダヤ人を撲殺するリトアニア人たち


婚姻関係の定義は何ですか?

 

●こういった厳しい状況の中で、リトアニアの日本領事・杉原千畝氏は、ポーランドから逃れてきたユダヤ人に日本通過査証(ビザ)を発給し、6000人の命を救ったのである。彼に助けられたユダヤ人は、日本を通過して他の国に渡っていったが、神戸に住み着いた者もいた。

(※ 1985年、杉原千畝氏はイスラエルの公的機関「ヤド・バシェム」から表彰され、「諸国民の中の正義の人賞」を受賞。翌年に彼は亡くなった)。

 


6000人のユダヤ人を救った
リトアニアの日本領事・杉原千畝



ビザを求めて日本領事館の前に並ぶユダヤ難民 (1940年)

 

●リトアニア生まれのユダヤ人であるソリー・ガノールは、少年時代にナチスの迫害にあい、「ダッハウ収容所」に収容されたが、アメリカの「日系人部隊」によって救出された。彼はこの時の体験を、著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)にまとめている。

 


Obenはドイツ語でどういう意味ですか?

 
(左)リトアニア生まれのユダヤ人ソリー・ガノール
(右)彼の著書『日本人に救われたユダヤ人の手記』(講談社)

 

●彼はナチスが迫ってくる頃、全く偶然、杉原千畝氏に出会い、杉原夫婦を自宅に招いたという。そして、杉原千畝氏から早期の脱出をアドバイスされるが、決断が遅れ期を逃してしまい、このことはまさに一生悔やまれたという。

その後、彼は各地を転々としたあと、「ダッハウ収容所」に収容され、そして、1945年5月2日に「日系人部隊」によって救出されたという。

 


ミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」

「ダッハウ収容所」は、ナチスが一番最初に作った
収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、
ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」
とされた人々を収容するために建設された。

 

●彼は本の中で次のように記している。


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「リトアニアの臨時の首都カウナスのユダヤ人たちに、わずかな希望を差し伸べてくれた当局者がひとりいた。日本領事館の領事代理、杉原千畝氏である。杉原氏は自分のキャリア、自分の名誉、おそらくは自分の生命さえ危険にさらして、6000人をこえるユダヤ人を救ったのである。

第二次世界大戦初頭の2年間についての私の記憶では、杉原氏は暗黒の中の一条の光にほかならなかった。杉原氏こそは、きたるべき恐ろしい日々の間ずっと、私にとって、ひとつの変わらぬインスピレーションであり続けたのである。

この杉原氏の姿を最後に目にしてから5年もたったのち、しかも、私がホロコーストの世界から解放されたまさにその瞬間、杉原氏と同じ日本人の顔が目の前にあった。何と不思議で、何と素晴らしいめぐりあわせだろうか。

杉原氏のまなざし、杉原氏の笑顔に通じる何かが、死の淵から私を連れ戻してくれた、そのGI(米軍兵士)の温顔に見てとれたのだ。雪野原から私をかかえ起こしてくれたのは、『ニセイ』と呼ばれるアメリカの日系二世だったのである。1945年5月2日のことであった。」



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