06/5/19
ア イ ル ラ ン ド 旅 日 記 17
第15日目 コ ー ク と コ ー ブ
コーブ港で乗船を待つ移民たちの画像(ヘリテージ・センターの壁画から)s |
10月10日(月)
6時半起床。昨夜からの雨は、まだ降り止まない。部屋から見える道の石畳には、街灯に照らされて舞い落ちる雨が輝いている。こんな雨では、コークの町を歩くのは諦めるしかないか・・・。
ジャグジーで身体をほぐして、8時を過ぎて朝食に行く。いちばん乗りだった。アイルランドに来てつくづく感じるのは、人々は宵っ張りの朝寝坊だ、ということだ。夜の帳に包まれるのが10時過ぎだし、朝焼けは8時を回って広がる。太陽に導かれての生活をしていれば、これが自然な姿であって、グリニッジ時刻は、会社や学校などの一応の目安なのだ。
いつのまにかボリュームたっぷりの「アイリッシュ・フル・ブレックファスト」に慣れた。朝からよく食べている。果物のジュース、シリアル、コーヒーか紅茶は共通だが、後は客の注文をとる。今朝は、目玉焼き・ベーコン・バター炒めのマッシュルームとトマト、ホワイト・プディング。それにソーセージだが、これは軟らかくて妙な食感で、臭みがあるので残す。薄く3角形に切られた食パンが、香ばしくトーストされていて、それにバターをたっぷりに塗ったのが、美味しい。この分じゃ、帰国後に体重計に乗るのが心配だ。
雨を恨みながら、「屋内なら影響はない・・・」と、10時の入場時刻を見計らって、「聖フィンバー大聖堂 (St.Fin Barre's Cathedral)」へ出かける。聖フィンバー(?〜623)は、コークの守護聖人だ。606年、彼が創立した神学校には、ヨーロッパ各地から優れた聖職者が集まって、アイルランドの主要神学校5校のひとつになった。神学校とともに、教会が創立され、そこを中心にコークの町が発展した。この大聖堂の場所は、コークの町の起源である。コークの町でほかの場所を観光するつもりはないが、ここだけは訪れよう、と出かけたのだ。
この辺りは、古い信仰の場として、古い街の中心として、大事な役割を果たしたが、その時代に建造されたものは、聖フィンバーの墓地以外、何も残っていない。ご多分にもれず、聖フィンバー大聖堂は、カトリックでなくイギリス国教会の礼拝堂に変わっている。アイルランドの苦難の歴史を象徴しているともいえる。19世紀後半に、ウイリアム・バークス(1827〜81)によって、フレンチ・ゴシック様式の大聖堂が設計され、現在の3つの尖塔と螺旋階段が完成したのが1879年。1935年に、大聖堂の屋根の装飾が出来上がった。数年前に、内部の改装工事が行われて、大々的に修復されたという。
聖フィンバー大聖堂ファッサード ナイアガラは、重要な記録を下回る |
正面に立つと、尖塔が鋭く天に伸び、雨に打たれた石灰石の外壁が、落ち着きを際だたせている。ゴシック様式の建造物にありがちな、どこか不安を感じさせる佇まいからは遠く、どっしりと落ち着いて、ホットする。堂内に入ると、受付係の聖職者だけで、だれもいない。黙って、日本語のパンフレットを渡してくれる。手書きの謄写版刷りのようなパンフレットだ。読んでみると、まるで日本語になっていない。多少日本語の分かる人が、たどたどしく翻訳し、手書きしたものらしい。暗い堂内に目を凝らすと、大聖堂が建造される前からある、赤暗褐色の大理石の洗礼盤など、古色蒼然とくすんだ品々がある。バラ窓や壁、床のモザイク画は、数々の聖書物語を題材にしているが、例えば、マタイによる福音書13章47節「天国は、 海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである」から、大小の魚が描かれている。イエスに従って、ガリラヤの漁師たちが、弟子になった。キリスト教では、魚は人々の象徴であるとともに、キリストの象徴でもある。映画「クオヴァデス」で、キリスト教徒の暗号として、魚の絵を描いていたっけ。
この教会のパイプオルガンは変わっている。普通、パイプオルガンは高いところにあるが、ここでは、祭壇脇が深く掘り下げられ、そこに設置されている。長いパイプだけが地上にでているが、ほかのパイプは下の方にあり、見下ろすことができる。どんな音がするのだろうか。
聖歌隊席を飾る四つ葉のクローバーの彫刻は、天国を象徴しているとか。クローバーは三つ葉が普通だ。小学生の頃、数少ない四つ葉のクローバーを見つけると、「幸せになる」と喜んだっけ。人間にとっては「幸せになる」のは「天国にいる」ことと、同じなんだろう。クローバーの傍で、楽しげに囀っている鳥の彫刻も面白い。四つ葉のクローバーといい、鳥のさえずりといい、神への賛美を連想させるユーモアが楽しい。聖堂内の重要な品々・聖書台、説教壇などには、解説の立て札があって、観光シーズンには訪れる人が多いのだろうが、この日は私たち以外に見に来ている人はいなかった。コークの町を戦場にした戦いで、1690年に撃ち込まれた砲弾が、飾られている。当時あった教会の塔に当たった砲弾が、礼拝堂を建て直 すときに見つかったという。堂内に溢れる静謐な空気を感じながら、改めて宗教問題を伴った民族の悲劇を、しみじみ思う。
小1時間ほど見学した後、再び車に乗って、市の中心部にあるインフォーメーション・センターへ行く。パンフレット類が多く置かれているけれども、質問の対応が要領を得ず曖昧で、埒があかない。観光シーズンが終わり、アルバイトで間に合わせているのだろうか。インフォーメーション・センターのすぐ傍に、この地方の人々の「対英独立蜂起記念碑」があって、繰り返し独立のために立ち上がった姿が刻まれている。碑文には、1798、1803、1848、1867という年(注)に、反英活動が高まり、犠牲者がでたことが記されている。
(注)1798年、イギリスの海軍提督ネルソン(1758〜1805)が、フランス海軍を撃破。それにも懲りず、ナポレオン(1769〜1821)がイギリス本土上陸作戦を展開し、1802年にアミアンの和約を取り付けた。イギリスは1801年にアイルランドを併合し連合王国となった。1848年のフランス二月革命は、ヨーロッパ各地に影響を及ぼす。イギリスではチャーティスト運動が最高潮に達した。1867年は、プロイセン・オーストリア戦争(1866〜70)の最中だ。こうしたイギリスを取り巻くヨーロッパ諸国の動きに、アイルランド人はチャンス到来と、独立への機運を高めた。だが、イギリスは、植民活動による経済力を背景にして強力な軍事力をアイルランドに送り、押さえ込んだ。
その後、コーヴへ向かう。昨日は時間のゆとりがなく諦めた港町だ。コークの町を離れてN25を東へ走り、R624に右折して南へ。警官の検問がある。アイルランドの南部へ下ってから、やたら検問に出くわすが、なぜなのだろう。北部では検問はなかったから、何か事件でも起こったのだろうか。雨はますます激しく、仕事とはいえ、ずぶぬれ警官に「ご苦労さん」と、同情する。
中国の "中心地"とは何の領域をカバーするのでしょうか?
12時頃、コーヴのヘリテージ・センター(Cobh Heritage Trust)に着く。駐車場に10数台のバスが停まっている。「こんなに大勢の人が押し寄せる場所? 雨なのに・・・」と驚いたが、まもなく理由がわかった。見学に訪れている老若男女の大半は、ツアーを組んでやって来たアメリカ人。特に年輩のグループが目立つ。現在、アメリカのアイルランド移民の子孫は4000万人を数え、「生きているうちに、父祖の地を訪れたい。その仕上げの場所がコーヴだ」というアメリカ人が多いという。そう言えば、アイルランドの本屋には、名前や地名からルーツを求める「先祖探しの本」が置かれている。観光に訪れた人々が、祖先を調べる心情になるのだろう。
また、Tシャツの背中に「You will be the President,too (あなたも大統領になれる)」とプリントされたものを、得意そうに着ている観光客がいる。「ケネディ(注)にあやかっているのねえ・・・」と、微笑ましい。アメリカに渡った移民たちの大半はカトリック教徒だったから、"白人で、アングロ・サクソン系で、プロテスタント(WASP)"優位のアメリカ社会では、差別された。そんな中から、刻苦勉励、身を砕いて、アイルランド系移民出身の大統領となったのがケネディだ。
(注)ケネディ(J,F,Kennedy 1917〜63) アイルランド系の票を基盤にして、民主党から連邦下院議員(1946年)、上院議員(1952年)に当選。1960年に第35代大統領になる。史上2番目に若い、カトリック教徒の大統領として、一躍注目を集める。キューバ・ミサイル危機(1962年)を解決して、第3次世界大戦を回避したと評価された。1963年6月アイルランドを訪問し、大歓迎を受けている。直後に、テキサス州ダラスで遊説中、暗殺された。彼が地盤とした民主党は、地方で公務員になる者が多く、特に消防士・警察官のアイルランド系が目立つ。ニューヨークの9,11テロ事件のとき、救助活動の任務に就いた警官には、アイルランド移民の子孫が多かったと言う。
ヘリテージ・センターは、' The Queenstown Story'(注)のテーマで、コーヴの旅行社が、EUの協力を得て、1993年に設立・公開し、現在では、年間10万人が訪れる名所だという。コーブ港で移民船に乗る人たちを運んだ鉄道の駅が、その姿を残す形で再建され、一部が記念館、一部がキャフェテリアや売店になっている。アイルランドとイギリスの関わりを知る歴史的な場所だ。
(注)コーヴは、英語の「Cove=入江」に由来する。1849年にイギリス女王ヴィクトリア(Victoria 1837〜1901在位)が訪問したのがきっかけで、クイーンズタウンと改名された。1921年、イギリスからの独立が決まって、元の名前に戻り、ゲール語標記の、Cobhになっている。
コーブ埠頭の移民記念碑 |
建物左手のコーヴ港には、桟橋が突き出し、その先には大西洋が広がっている。岸壁に、1993年に除幕された若いアニー・ムーア(Annie Moore)という娘と、弟2人がモデルになった「移民記念碑像」が建っている。心残りのアニーが、後を振り返っている悲痛な姿。大きい方の弟は、乗り込む船とアメリカへの希望をあらわして、無邪気に腕を伸ばしているように見える。アメリカは、1892年1月1日、ニューヨークのエリス島に移民受け入れのための施設を開設した。彼らは、そこを経由したアイルランドからの移民第1号として、記録に残っている姉弟だ。もちろん、それ以前から、アメリカへのアイルランド人移民はいたのだが、正式の記録は彼らが初めてで、他は、移民の子孫の記憶に残るだけになっている。エリス島にも、同じアニー姉弟の移民記念碑像が建っている。彼らがエリス島を通過した最初の移民としてだけでなく、多くのアイルランド移民たちのシンボ� ��なのだ。
ブーン郡ケンタッキー州最大の雇用主は何ですか
解説によると、1815年から1970年の150年足らずの間に、コーヴ港からアメリカに向けて、300万人の移民が船に乗っている。特にジャガイモ飢饉に見舞われた時代(1845〜51年)には、飢えで死亡するよりも、移民になった者が多かった。その数150万人以上。農家では、長男以外の17歳から24歳の働き手が、移民になった。彼らは、1人当たり6〜8ポンドの船賃を工面して祖国を離れていった。こうした移民は、アメリカでの必死な労働で得たお金(19世紀後半の50年間で、46万ポンドになったという)を、祖国の家族に送り続けた。同じ時期のアイルランドの人口は、440万人まで減少したが、移民が、彼らの経済を支えている。
ヘリテージ・センターの記念館に入場すると、大音響を背景に、大西洋の荒波に翻弄される船の画面が映し出されている。移民たちは、船酔いと飢え、非衛生的で過密な船中で、弱った者が次々に死んでいく。我が子の亡骸にしがみついている母親。その子どもを引き離し、海に捨てる任務を行っている船乗りたち。それでも、一縷の希望をアメリカの新天地へ祈りながら、人々は海を渡った。入場するときには陽気だった観光客が、次第に無口になって、必死に映像を見つめている。船倉一杯にぶら下げられた衣類の下で、すし詰めになって、横になるのもままならない空間に身を置く移民たち。人間の極限状況を思う。
壁に掲示されている資料の中には、この港から船に乗せられた人々の状況も紹介されている。移民だけでなく、人殺し、窃盗やかっぱらいで罪を犯した囚人が、1791年に初めてオーストラリアへ送られたのだ。「1791年から1853年までの間に、男3万人、女9千人の囚人が、ここで船に乗りました。イングランドにとっては、悪い要因が減って、よくなりました」という説明がある。その傍には「息子(夫、娘、親族など)を、オーストラリアへ連れて行かないでください」という、連名の嘆願書が何通もある。船に乗せられれば、生きて2度と祖国には帰れない囚人。家族の悲痛な叫びが、たどたどしい文字に刻まれている。「これらの願いは叶えられませんでした」という解説が続く。囚人たちは、船内でも両足を鎖に繋がれて、身動� ��できない様子が、蝋人形で再現されている。薄い藁に横たわっている彼らの劣悪な姿は、牛や馬以下の扱いで、人間の尊厳など、これっぽっちも存在していない。船内の移民たちも、似たり寄ったりの状況だが、希望を抱いて乗船したところが、大きく違う。
映像と復元されている資料、観光客の雰囲気に圧倒され、アイルランドが辿った歴史の非情さに、心がざわついてくる。「なんとしても、非道いねえ・・・」と、何度、呟いたことか。重くのしかかる空気に、気分は落ち込む。この町が、大西洋への表玄関として、歴史的に重要な役割を果たし、アメリカへの移民の基地だったことが、充分に理解できた。
この一角を抜けると、途端に別世界が広がっている。コーヴ港は、処女航海で沈没したタイタニック号(Titanic)の最後の寄港地だったのだ。超高級ホテルとしての異次元空間が広がっている。1912年4月11日。その頃、クイーンズタウン(Queenstown)と呼ばれていたコーヴに、新造のタイタニック号が寄港し、少数の乗船客と下船客が交代して、錨を上げた。イギリスのサウザンプトン(Southampton)から、アメリカへ向けての航海は、大きな話題だった。下船した客の1人に、この先の悲劇を免れた新聞記者がいた。彼は、処女航海で出航してからの晴れやかな船内の様子を取材し、一刻も早く知らせるべく、船を降りたのだ。その写真が数多く残っている。2206人の人々(1308人の乗客と898人の船員)の最後の時間が、夢のように広がってい る。氷河に衝突して沈没した乗客の救出作業も、写真で残っている。
もうひとつのコーナーが続く。1915年5月7日に、ニューヨークからリヴァプール(Liverpool)へ向かっていたルシタニア号(Lusitania)が、キンセール沖合でドイツの潜水艦に攻撃されて沈没した。1959人のうち761人は助けられたが、1198人の大半は、船と運命を共にし、遺体の多くは発見されていない。見つかった150の遺体が、コーヴの聖コルマン教会に埋葬されたが、現在でも80人の身元は不明だという。クイーンズタウンの周辺の病院や家庭には、助けられた乗客が収容されている。彼らの姿を報ずる新聞記事が、当時の様子を生々しく伝えている。
一回りして記念館の外に出ると、キャフテリアがあって、その先がコークからの鉄道駅になっている。移民たちは、この鉄道を利用して、コーヴ港に辿り着いたのだ。ガランとしている鉄道駅を眺めながら、気持ちは、一層複雑になっていく。航海をするために船に乗るという行為は同じでありながら、移民や囚人と、タイタニック号やルシタニア号の乗客は、なんと違った人生だったことか。被征服者の生き延びるための航海と絶望の航海。征服者の贅沢を楽しむための航海。コーヴ港の岸壁を洗う大西洋の波は、昔も今も、変わってはいない。だが、波に委ねられた人々の運命は、天と地との違いになっている。人々のそれぞれの思いを、コーヴで垣間見た気がした。北から南下してきてコーヴが最後になったが、ドライブの旅の� ��めくくりに相応しい土地だと感じた。
1時半近く、キャフェテリアで、遅い昼食にする。食べ慣れて美味しい「今日のスープ」を注文したが、いつものような食欲はない。胸が詰まっているのだ。こんなに刺激的な時間のすぐ後だから、当然だろう。
帰路、コーク空港へ寄ることにする。明日、最後の地ダブリンへ移動するのだが、鉄道か飛行機か、どちらが便利なのか調べるためだ。それに、レンタカーを返却する場所を、コーク空港にしてある。鉄道を利用するとしても、空港の様子を確かめたほうが安心だ。
R624ー>N25ー>N8ー>N27と辿りながら、空港に着いたのは3時近い。ダブリン行きは、コーク空港発12時がある。時間的には好都合だし、レンタカーを返す手間を含めれば、空港まで荷物を持ってくることができて楽だ。ダブリンまでは、飛行機は50分、鉄道は2時間50分かかる。運賃は飛行機74ユーロ、鉄道49ユーロ(往復も片道も同じ運賃)だ。時間と費用と便利さを総合して、飛行機を利用する。前もって航空券を購入していればかなり安いが、予定の行程がどうなるかはっきりしないので、無理だった。
その後、コークに戻ってから、少し町中を見て歩くことにした。車をデパートに隣接している有料駐車場に入れることにした。駐車場に入ったとき、ヒヤリと肝を冷やした。慣れないものだから、夫は通路を勘違いし、反対側に入ろうとしたのだ。直ぐ後に続いている車が、「ブー、ブー」というクラクションを鳴らして教えてくれた。
オールド・イングリッシュ・マーケットの一角 |
"オールド・イングリッシュ・マーケット"を覗く。1610年に始まって1786年に現在の建物になったのだから、古い。「ヘエーッ。400年も続いているのよ」と、興味津々だ。旅でどこの町を訪れても、大好きな場所は市場だ。鮮魚・肉類・野菜・果物・その他。日常生活用品が溢れていて、それらを買っている地元の人々の様子を眺めていると、彼らの生活そのものが見えて来る。ここは、アジアの市場にも共通する人間臭さが溢れていて、アイルランド人の暮らしぶりが想像できた。「美味しそうだよ。夕食は、部屋で食べよう」と、デリカテッセンのコーナーを物色する。
まだ、雨が降っている。歩いている人の半分くらいは、傘をさしていない。今朝からずっと雨は降り続いているから、そんな天気でも、外出に傘を持たないのだろう。アイルランドに到着以来、天気は目まぐるしく変わっている。傘と天気は相関関係にはないのか。日本人の感覚では、雨には傘だ。1時間ほど通りを歩き、コークの町の印象を肌に感じる。
駐車場から出るとき、仕組みに戸惑った。料金支払いを、駐車場に入る前の部屋にある機械で済ませてカードをもらい、それを入れるとバーが上がる仕組みになっている。日本では、出口で料金を払うと出られるのが一般的。慣れないやり方だから、慌てて精算機を探した。私たちと同じように戸惑う人もいるらしく、出口の近くに機械が置かれていた。退勤時間になって、町から出る通りが混雑している。経済の好調で、コークの町の周辺には、新興住宅が新しく増えているのだ。
宿に戻って、まずはジャグジー。体をほぐした後、夕食にする。チキンサラダ、玉子サンドイッチ、チーズ、ヨーグルト、柿のたねなど持参のおつまみ、カップラーメン、ブドウ、オレンジ。変な取り合わせだ。500mlのギネス2本で「お疲れさんの1日でした」と、乾杯。明日は飛行機に乗る。セキュリティ・チェックで引っかからないようにと、荷物の仕分けをし、パッキング。10時には就寝。
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